kant4789の日記

我々の尊厳は、空間や時間に何かで満たすことで得られるのではなく、美徳に内在する思考の原理の上に立ち上がって初めて見え始める

涙溢れる学びの瞬間

“平和”が“成り立つ”を綴り「平成」と書く。
この時代、この文字とふれながら何を紡ぐことができたのか、それは
私たちが初めて“戦争を一度も起こさなかった”といえることの時代です。
そして、この時代は幕を降ろし、今度は、戦争がないことだけが
本当の平和なのかを問い続けながら、世界中に発信と協力をしていける新しい令和の時代が始まった。

子どもと大人との違いを考えてみよう。
答えはひとつではない。この世界は個人と社会、あるいは自然との共存のため何かの約束で成り立っている
その約束ができるかどうかの違いもそのひとつだ

日々、勉強が大切だといわれる理由の根っこには
目には見えないけれど何かの約束ごとの中にこの世界のすべてがあるのだと感じることが必要だからだ。

このような話がある
人の社会では、私たちのトイレにたまったウンチは、しかるべき人が、集めて、しかるべき場所で処理をしてくれているけれど、自然の中での動物たちのウンチはどうだろうか。
ミミズや小さな虫たちが、動物のウンチを食べて、またその虫たちもウンチをする、
その匂いを嗅ぐと“土”の匂いがし、数日たつとそこから草が生えていることに
気づいた瞬間、涙がこぼれた。

そう、自然の中では、“象が大きいからえらい”、“ライオンが強いからえらい”ではなく、
小さな生き物でさえ、役割を果たすべき何かの約束というものがあり、
大きさ、強さ以上の尊さがあり、すべては平らで同じなのです。

社会で生きる人、人間には、このことが当てはまるのだろうか。
当てはまっているべき部分もあるけれど、それだけでは成り立たないことが
人として生きることであり、それが故の社会の中で約束ができるかどうかということを
子どもが大人へ成長する過程で、大人も人類としてさらなる向上するため、
「考える」ことを続けなければならない。
だから、もちろん身体が大きいからそれが大人であるという、おかしいということは言うまでもない。

理科の勉強で、宇宙には空気がないという勉強をします、しかし、その情報が大切なのではなく、
“広大な宇宙に空気がないということで、人は1秒も生きられないけれど、
人の尊さは、「悩み考える」という自覚があり、それを生きている意味とすることで
宇宙は、尊さも存在の意味も、知らない“
とパンセは「人は考える葦である」の中で語っている。